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金沢町(かねざわまち)は秋田県の東南部に位置した町。後三年の役の古戦場として知られ、金沢柵などの史跡がある〔『角川日本地名大辞典』(1980)〕。昭和の大合併で横手市に編入され消滅。その後、北部が仙北郡仙南村に分市した〔。 == 概要 == 平安時代に起こった後三年合戦の古戦場として知られる〔「金沢」『秋田大百科事典』(1981)p.202〕。『奥州後三年記』などによれば、ここでは出羽清原氏一族の清原武衡・清原家衡のこもる金沢柵に源義家・藤原清衡連合軍が兵糧攻めの末に落城させたとされ、これが奥州藤原氏による平泉政権につながったものである〔後三年合戦の金沢柵攻城戦は日本史上初の兵糧攻めといわれている。〕。古戦場には金澤八幡宮があり、従来はこれが金沢柵のあった場所と考えられてきた〔「金沢柵遺跡」『秋田大百科事典』(1981)p.202〕。しかし、こんにちでは横手市金沢中野の陣館遺跡で庇付建物が見つかったり、美郷町側の長岡森周辺の地形・構造が横手市の平安時代の同時期の防禦性集落大鳥井山遺跡(国指定史跡)に似ていることなどが指摘されており、八幡宮一帯が金沢柵の故地であるとは断定できなくなってきた〔金沢柵跡(推定地) (横手市「観光・文化」)〕。 一方、八幡宮一帯が中世において城館「金沢城」として用いられてきたこともまた事実であり、曲輪(郭)や空堀、一部石垣を備えた本格的な防禦施設であることは明らかである〔。昭和40年代には秋田県教育委員会によって発掘調査がおこなわれ、本丸跡、西の丸、北の丸からは掘立柱建物跡を検出している〔〔金沢柵と金沢城跡 〕。建物の時期を特定できる遺物は出土していないが、北の丸建物遺構の検出された平坦地北側からは木炭くず、炭化米が出土している〔。遺跡全体からは、須恵器、古瀬戸、黄瀬戸、中国産青磁、石製片口鉢、赤漆塗の椀、常滑産の三筋文壺などが出土している〔〔。文献資料からは、1458年(長禄2年)に南部氏の家臣金沢右京亮が入り、1470年(文明2年)まで居館としていた〔「金沢城跡」『秋田大百科事典』(1981)pp.202-203〕。その後、雄勝郡から平鹿郡・さらに仙北郡へと北上した小野寺氏の勢力下に入り、小野寺氏の家臣金沢権十郎が居城とした〔。戦国時代にあっては、金沢城主は他の近隣大小領主からは比較的自立的な動きを示した。 常陸国の戦国大名佐竹氏の出羽久保田転封にともない、金沢城は佐竹義賢(東将監)、梶原美濃が受け取り、1622年(元和8年)に破却された〔。歴代の久保田藩主は清和源氏の流れを汲むことから八幡宮を保護した〔佐竹氏は、源義家(八幡太郎義家)の弟源義光(新羅三郎義光)の子孫と称している。義光もまた、後三年合戦のときには当地を訪れたと記録されている。〕。この神社に奉納される「金沢ささら」は、佐竹氏入部にともない下野国からもたらされた「茂木ささら」が源流といわれ、勇壮活発な舞で知られる〔〔東北伝統芸能アーカイブス「金沢ささら」 (東北大学大学院教育情報学研究部渡部信一研究室)〕。また、六郷熊野神社とならび、金澤八幡宮でも古代の歌垣のなごりといわれる「かけ唄祭り」がおこなわれる。 1964年(昭和39年)、公園設置条例により、横手公園とともに金沢公園となった。1970年代には、日発精密、丸巳繊維、厚木自動車部品などの工場がつぎつぎに誘致された〔。 金沢本町の桂徳寺に県有形文化財「木造阿弥陀如来坐像」、金澤八幡宮に県有形文化財「写経(大般若波羅蜜多経)」が所蔵されている〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「金沢町 (秋田県)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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